フィルムからフィルムまで #17
《ニンゲン合格(1999)》

あらすじ

吉井豊は、14歳の時に交通事故に遭っていらい、病院のベッドで昏睡しつづけていた。ところが10年後のある日、突然、意識が回復する。父の友人・藤森に連れられてポニー牧場を営んでいた実家に帰ってみると、家族は離散、藤森は敷地で釣り堀をやっていた。とまどいつつも豊は、変貌した現実世界と自分自身とに適応しようとするのだが……。

※この連載では、冒頭シーンの描写もふくめて、あるていどストーリーの展開に触れています。あらかじめご了承ください。


……ほんの一瞬でいいんだ。
えっ? なあに?
ほんの一瞬でいいからさあ、もういちどみんながそろうことってあんのかな。

 患者の容態が急変したのか、一台のベッドが、看護師たちと医師にとりまかれながら病院の廊下を運ばれてゆく。

 医師は腕時計をすばやく確認し、消毒の準備をするよう看護師のひとりに指示をする。

 かなりゆとりのある病室。急患用の個室だろうか。

 足をこちらへ向けて置かれたベッドでは、先ほどの患者が、口に酸素吸入器をつけて眠っている。一定間隔で酸素を供給している、シューッ、という音。心拍数をあらわす信号音を発している計測器。

 病室へとつながる薄暗い手前のへやの隅では、看護師がてきぱきと医療器具を準備している。

 奥のベッドで、髪の長い青年が、むくりと上体を起こした。

 ゆっくりと左右を見やると、口の吸入器に手をかけて、とりはずす。

 看護師はまったく気がつかない。

 患者用ガウンの前をはだけ、胸につけられたセンサーを見る。

 まわりと自分を確かめている。

 ふとんをのけ、ベッドから出ようとする――ものの、水に飛び込もうとしたかのように、床にうつ伏せに倒れこんでしまう。からだに力が入らないらしい。

 器具類をのせた盆をもち、手前のへやを小走りで横切ってゆく看護師。

 病室の異変に気がついて、足をとめる。

 目のまえで起こっている事態を把握しきるまでは動けません、とでもいうように、無表情のまま十秒ほど見つめている看護師。

 なんとか仰向けに転がり、両腕をのばしたまま息をつく青年。

 急いでへやを出てゆく看護師。

 先ほどの医療チームが、ふたたび廊下を病室へと駆けてゆく。

 ベッドのそばのイスに腰かけた医師が、カルテに書きこみつつ、目を覚ました青年・吉井豊に問診をしている。上体のほうを少し起こされたベッドに横になったまま、決まりきったやりとりであるかのように、気のない返事をしている豊。

 吉井くん、食事は?

 あ、おいしかったです。

 そう……食欲も、あると。じゃあもうほとんど健康体だな。顔色もいいし。

 (きのうは早めに寝ましたから、とでもいう風に)ぐっすり寝ましたから。

 え?

 いや十年間。

 (すこし間をおいて、苦笑しつつ)……ああ。

 医師はかるく咳払いをして立ち上がると、手前のへやへ歩いてゆきながら語る――十年も昏睡していた状態から回復するというのは、滅多にない奇跡であること。彼はいま二十四歳であること。病院の外の世界は、記憶とは様変わりしているであろうこと。

 「はい」とか「ええ」とか「はあ」だとか、相槌のための相槌しかうたない豊。そうして医師は、励ますように、こう声をかける。

 大丈夫――失ったものは、すぐとり戻せる。

 返事をせずに、顔をそらす豊。反発して、というよりは、そう言われたってよくわからない、といった風に。失ったものとは何なのか。それをとり戻すとは、いったいどういうことなのか。

 これからの、新しい人生を大切にしなさい。医師は最後にそう言うと、へやから出ていった。

 ぼんやりと天井を見ている豊。

 まるで目に映っているのが現実の世界であるということに、まだ実感が湧いていないかのようだ。

 いきなり大人になっている、自分自身の肉体についても。

 時間の感覚というものの不思議さを、この映画を観ているとあらためて実感させられる。

 原因は、かなり思いきった編集がなされていることによる。家族間の葛藤をあつかった物語ではふつう見せ場になるようなシーンがばっさりカットされていたり、逆に、とくに劇的というわけではないシーンをじっくりと見せてきたり――言ってみれば、より好みが激しいかのように感じられるのだ。

 まるで、こころが14歳のままの24歳として10年後の世界で生きることになった主人公・豊が、みずから指示してまとめた結果です、とでもいうように。

 覚醒した直後はまともに立てなかったのだから困難だったのであろうリハビリのシーンは、わずか数秒で終了し、そのつぎは病院内をダッシュしながら戻ってきてスニーカーを履いたままベッドにダイブして寝っ転がる、というシーンなので、あっという間に筋力が回復したかのように見える。

 もともと折り合いが悪かったのであろう豊の母・幸子と妹・千鶴(他のシーンでのやりとりから察せられる)との再会の瞬間も、まあここは大したことないんで、とでも言うように、千鶴が車から降りてきたのを幸子が遠くから見つけるところまでで、後はばっさりカット。

 そのいっぽうで、豊が中学の同級生たちと夜の商店街を酔っぱらいながら歩いてきて、古本屋のまえに停めてある自転車の前カゴに酒の空き缶を投げ入れあうシーンや、母と妹と三人で居間に集まってくつろぎながら、思い思いにテレビを見たり雑誌を読んだりしているシーンなどは、カメラは動かず、時間の流れも断たれずに、じっくりと提示される。

 けれども、観ていて不自然というよりむしろ、メリハリがあって心地よいと感じる。撮影素材のどの部分は必要で、どの部分は不要だと考えたのか――その判断に共感できる、ということなのかもしれない。映画における編集の妙味を愉しめる作品だ。

 昔のことを思い出しながら小説を書いていると、書いていなかった時よりも、記憶が鮮明に蘇ってくるようになった。脳裏にありありと浮かんでくる様々な過去の情景のなかに浸りこんでいるとつい、今の年齢を忘れてしまう。

 ある著名なJ-POPの作曲家がインタビューで、自分の中にはさまざまな年代の自分が並行して存在している、と語っていたことを思い出す。たとえば、アイドルに楽曲を提供する時には10代の、こども向けの時には幼少期の自分の心境にかえって、メロディーを生み出しているのだとか。

 わたしたちは内心では思いのほか、色々な年齢の自分にしょっちゅうなったり戻ったりしながら、日々を暮らしているものなのかもしれない。

《フィルムからフィルムまで #17『ニンゲン合格』 了》



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