フィルムからフィルムまで #16
《母の曲(1937)》

あらすじ

お稲は、職工から医学博士になった夫・波多野純爾(じゅんじ)と、お嬢さま学校に通うひとり娘・桂子と、三人で暮らしている。桂子の同級生の母親たちは、上流社会の婦人ばかり。お稲は庶民出身の自分に教養がないことに、強い引け目を感じている。家族は気にすることなく愛情を示してくれるものの、婦人たちはちくちくと刺してきて……。(原作・吉屋信子)

※この連載では、冒頭シーンの描写もふくめて、あるていどストーリーの展開に触れています。あらかじめご了承ください。


——あの人が出世するにつけ、つくづく自分がみじめに思えてならないんだよ。

 屋上に大きな鐘のある、三階建ての、モダンな校舎。

 校庭では、制服姿の女学生たちがボール遊びをしたり、ゴム飛びのようなことをしたり、花壇の花に水をやったりしている。

 校舎内の一室では、品のよい着物姿の婦人たちがめいめいで固まって、白いカップとソーサーで紅茶を飲みながら談笑をしている。

 壁ぎわのソファにいる三人の話題は、今月の歌舞伎を観たか、観ないか。彼女たちにとっては、買い物へゆくのと同じような気晴らしのひとつであるようだ。

 部屋の中央にすえられた長いテーブルにはクロスが敷かれ、花瓶には花が活けられている。下座のいちばん隅っこの席に、ひとりきりで座っている婦人。テーブルに手をつき、カップへかがみこむようにしながら、スプーンで音をたてて紅茶を啜っている——まるで西洋式のお茶を、初めて目にしたかのように。

 三人のうちの一人が見つけて、いぶかしげに隣に話しかける。あの方、波多野博士の奥様でございますか? そうなんでございますよ、といくぶん眉をひそめ、テーブルを見やりつつ応じるお隣。背を向けていた婦人も振り返り、うっすらと微笑みつつ、声をたてずに「まあ」と言う。


 背広姿の男性教師が入ってきた。

 いっせいに談笑をやめ、長いテーブルの席に着いてゆく婦人たち。

 左側に七名、右側に七名、計十四名。

 ロイド風の丸めがねをかけて口髭を生やした教師・田村は、正面に立つと、お待たせいたしました、とテーブルに両手をそえてかるくお辞儀をし、落ち着いた口調で話しはじめる――本日、皆様がたのご出席を願いましたのは、わが学校当局が、ご令嬢がたの教育につきまして大変実績を上げておりますところの、Mother’s Association、すなわち母の会についてであります。

 着席し、趣旨の説明をつづける田村。なんでも、生徒たちの純真さを傷つけずに正しい人間としての心を養う教育を家庭との緊密な連携のもとにおこなってゆくにあたって、母親たちの意見を集めたいのだとか。

 わたくしは只今の田村先生のご意見に賛成でございます、と、さきほどの歌舞伎かぶれ三羽がらすのうちのAが積極的に発言をすると、すかさずBが同調する。みなさまも、娘時代の経験をお話しになってはいかがでございましょう。スプーンでお茶を飲んでいた婦人・お稲は、はっとし、困ったような顔をする。Cが追い打ちをかける。ねえ田村先生、読書の経験談などはいかがでございましょう?


 はあ、非常に参考になります。読書の選択は、もっとも教育と重大な関係があります。


 波多野の奥様は、いろいろ変わった経験をお持ちになってるように聞きましたけど、お話しなさいましては? とんでもない、と辞退するお稲の言葉を逆手にとって、たくみに一座の興味をかきたててゆくからすたち。奥様、そんなにご謙遜なすっちゃいやでございますわ、お話しくださいましよ。

 少しの間をおいて、とうとうすっ、と立ち上がるお稲。困惑げに微笑みつつ口をひらく――あたしは、皆様のようにご立派な教育を受けておりません、娘時代働いてたものですから……(無表情で聞いている婦人たちの顔・顔・顔・顔)。どうか、あたしがこれから話しますこと、お笑いくださいませんように。

 かるく頷いたりなどしながら、神妙そうに顔を見合わせる婦人たち。


 あたしは小さい時から、講談ものが好きでした。ことに『沓掛(くつかけ)時次郎』のようなお話が……。


 にこやかにしていた田村。それを聞くや、ぎょっとして、憮然としたようすで目を逸らしてしまう。

 どっ、と、あくまでもお上品に笑いさざめく十六名の婦人。ハンカチを口にあてたり、起きあがり小法師のようにくりかえし上体を折り曲げたり――ツボに嵌まってしまったようで、場はしばらく鎮まりそうにない。

 放心したように腰をおろし、目の焦点が定まらないお稲。どうしてこんなに笑われてしまうのか、ピンと来ないのだろうか(『沓掛時次郎』は、人を斬ってしまう博徒が主人公の股旅もの)。

 自分には、教養がないのだ――この出来事は、これから彼女が上流社会でなめることになる辛酸の、ほんのひとしずくにすぎないのだった。


 お稲はそれからのち、前途有望な医学博士の婦人として、また優等生でピアノの才能にも恵まれた娘の母親として、恥ずかしくない教養を身につけようとするのだけれども、残念ながら、彼女の努力は実を結ばない。お稲にとっての上流社会は、徹底的に水が合わない世界として描かれる。それなのに夫と娘はまったく自然に馴染んでいるという事実が、さらに孤立感を深めていて、せつない。

 純粋な若侍と利発な茶屋娘、華族の子女と家庭教師の書生――身分の異なるふたりの間に立ちふさがる困難をはげしい熱情で突破して結ばれる、というのはメロドラマの定型の一つだけれども、今作では逆に、現実の壁を越えられない存在にすることによって劇的状況を作りだしている。

 そして夫、娘、娘のピアノの先生、庶民であるお稲の旧友といった人々の思いやりの深い優しさが、上流婦人のグループとその娘たちの冷淡さとあいまって、物語の悲劇性を高めてもいる。周到に演出された作品だと思う。


 東東京の下町で生まれて、高校を卒業するまでの時間をほとんど西の方を知らずに過ごした人間なので、どこそこでございますわよ、とか、何々なさってはいかがでございましょうか、といった口ぶりの人と、日常的にやりとりをした記憶はない。そもそも、そんないかにも上流階級然とした話しかたが、二十世紀の末にまで保存されていたのかどうかはともかくとして。

 でも考えてみれば、いかにも下町人な喋りっぷりであるかの“寅さん”のような人と知り合った記憶も、ない。どちらもフィクションの世界のために生み出された、現実にはほとんど存在しない人物像なのかもしれない。令和の今の世にもし実在するなら、会ってみたいけどね。

《フィルムからフィルムまで #16『母の曲』 了》



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