フィルムからフィルムまで #8
《鶴八鶴次郎(1938)》
あらすじ
女の三味線弾き・鶴八と男の太夫(語り手)・鶴次郎は、江戸浄瑠璃の人気コンビ。寄席に出れば、いつも大入りだ。こどものころから一緒の二人、内心では惹かれあっている。だが頑固者同士ゆえに、ふとしたことで大喧嘩になってしまう。ようやくお互いの思いを確かめたのちに、晴れて結ばれて、自分たちの寄席を構えようとするのだが……。(原作:川口松太郎)
※この連載では、冒頭シーンの描写もふくめて、あるていどストーリーの展開に触れています。あらかじめご了承ください。
十何年もいっしょに大きくなって、それぐらいの気持ち、わかってくれそうなもんじゃないか。
だって――そりゃ、無理ですよ。
着物すがたの参詣者ばかりで賑わっている、戦前の浅草・浅草寺の境内。
参拝を済ませる、鶴八と鶴次郎。
目を閉じて手を合わせたまま、長いことお願いをしているようすの鶴八を、不思議そうに眺める鶴次郎。
おみくじを引いて、結果を見せあう。仲見世でおみやげを物色する。浅草寺もうでの定番コースは、昔も今も変わらないようだ。きっと色彩も現代に劣らないくらいうんと鮮やかだったのだろうけれども、モノクロの映像で見ると、しっとりとした落ち着きが感じられる。
出番のある寄席へと向かう電車のなかで、並んで座っているふたり。
どちらにとっても芸の師匠である鶴八の母の法事についてしんみりと会話を交わしたあとで、脚を組みなおした鶴次郎がふと、鶴八の首に注目する。
こんなところに、ほくろがあるんだね。
あら、どこ?
ほら、ここだよ。
鶴八の肩に気軽に手を置き、首の後ろを指先で示す鶴次郎。はっとして、よしてよこんな所で、という風に払いのける鶴八。人目を気にしながら居ずまいを正すふたり。
こどもの頃からいっしょに芸を習ってきた間柄でも、知らないことは色々とあるようだ。仲は良いけれども、恋仲ではない――そういう微妙な関係性が、ちょっとしたやりとりから自然に伝わってくる。
ところが、こと芸事の話となると、どちらも人が変わったように頑固になってしまい、絶対に自分の主張を曲げようとしないのだ。
今夜の楽屋でも、冷や冷やするようなひと騒動が待ち構えているのだった。
心中の本音をけっして口には出さなかったり、それとなく仄めかそうとしたり、かと思えば真っすぐにぶつけてみたり――時にコミカルに、時にシニカルに描かれるさまざまな遠慮や忖度、誤解や和解が絡みあいながら、ふたりを中心とした江戸っ子たちの人間ドラマは展開してゆく。
鶴八は、鶴次郎のことを思いやった上であえてこっそり気を回したりするのだけれども、それが、俺に黙って勝手なことをしやがった、と受け取られてしまう。すると彼女も負けじと、それなら勝手にしな、と突っぱねる。暴言をぶつけられたら長ぎせるを投げつけてお返しする、といった調子で、一歩も引かない。かと思えば、鶴次郎への思慕の念を自分からはけっして言い出せない、たいへんな奥手でもあるのだけれども。
二人とも、「好きです」や「ごめんなさい」が、素直に口から出てこない。
けれども、じめじめはしていないところが良い。
いわば気っ風のよいもどかしさで、何度もよりを戻しては遠ざかってゆく二人のようすは微笑ましくもあり、哀しげでもあり――肝心の本音は、知り合いにこっそりと伝えられたり、けっきょく語られないまま終わったり。その気になりさえすれば誰でもインターネットを介して大勢の他人と共有可能な現代社会とは、隔世の感がある。
人気商売のままならなさを実感させてくれる作品でもある。
あれほど大入りが続いていたのに、喧嘩わかれして鶴次郎が独りになったとたん、実力はあるのにお客が入らない。あの二人の掛け合いが良かったのに、というわけなのだろう。客入りがかんばしくなければ運営者の心証がよろしくないし、ふさぎこんで芸まで荒れてくる――負のスパイラルだ。
そもそも人気というもの自体が、いつまで続くのか判りはしない。人も流行も、淡々と移ろいをつづけてゆく。町民二人が落ち目になった鶴次郎のうわさをするシーンの台詞にあった、お客ごころと秋の空、というフレーズが、強く印象に残っている。
《フィルムからフィルムまで #8『鶴八鶴次郎』 了》
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