平成おとぎ草子
第3話 こぶはとらねど夢はとる

まえがき 童心に、なってみませんか。

 『平成おとぎ草子』は、1990年代の東京の下町を舞台に、「浦島太郎」「桃太郎」「舌切り雀」などのおなじみのおとぎ話からテーマをとりつつ、おなじ主人公・世界観をベースに自由な解釈でリメイクしてゆく連作シリーズです。こども時代という人生の物語の原点と、日本の物語の原点をかけ合わせてみよう、という試みです。 

 執筆していてあらためて感じたのですが、平成になって間もないころには、まだまだ昭和の名残りが濃厚でした。 

 黒電話やブラウン管テレビ、木目がひとの顔に見える天井。 

 そんな昭和の夕焼けのような世界に、確実に令和の現代へとつながる要素が出現してくる。90年代とは、そういう時代だったのでしょう。 

 むかしの日本といまの日本の、橋渡し役をになっていた時代。 

 世知がらい現在ただいまから少しむかしへとこころを遊ばせてみて、ゆっくりと作品世界に浸っていただけたらうれしく思います。 

 おとぎ話の語り直しは、これまでにも多くの作家が試みてきました。 浦島太郎ひとつをとっても、江戸時代から近・現代にかけて、近松門左衛門、森鷗外、島崎藤村、太宰治らが、それぞれの解釈による表現をおこなっている。 

 そういった歴史もふまえつつ、令和の時代にひっそりと生きるいち物書きが新たな作例をつけ加えてみるのも、なかなか愉快なことではないか。そう思いつつ書き進めています。 

参考文献 

河合隼雄『昔話と日本人の心』岩波現代文庫、二〇〇二年。 


*この物語はフィクションです。登場人物は主人公もふくめて、すべて架空の存在です。 

*どの回も一話完結式ですが、第1話から順にお読みいただくとすべての繋がりがわかって、より一層お楽しみいただけます。


こぶはとらねど夢はとる

 ほんのひと昔まえの日本には、もっとあちこちに遊園地があった。

 100円玉を入れるとその場で駆けつづけるユニコーン、すぐに行き止まるゴーカート、カラフルな水車のような観覧車――そう、デパートなどの屋上にある遊戯場のことだ。

 東東京の東のはしっこ、江戸川区にあるわが町、古井和。

 JR古井和駅の北口を出るとすぐに目に入る、じつはデパートではなく総合スーパーのイトーヨーカドー。七階の屋上にかつてはあった遊戯場が(同級生のあいだでは“ミニ遊園地”と呼ばれていた)、小さなころには身近なテーマパークのようなものだった。

 幼稚園生のころには、母に連れられて買い物ついでによく訪れた。

 エレベーターのまえで階数表示のランプを見上げながら待っていると、チン、と鳴って、ドアが開く。

 最上階まで一気に上昇してゆく浮遊感。

 このころは、ふだんは見上げている建物がどんどん小さくなってゆくのを窓から見下ろしているだけでもスリルを感じられた。

 だがこどもというのは、恩知らずで飽きっぽくて、気まぐれだ。

 何年生だったか、小学校に上がってから訪れたとき、周りにいる年下の子たちがこどもっぽく思えて一緒にいるのが恥ずかしくなり、すぐに帰ってしまった。

 それから六年生の秋のよく晴れた日の夕方まで、訪れた記憶がまったくない。

 季節を憶えているのは、十月十日の体育の日で、運動会の終わったあとだったからだ。


 ゲーセン、行ってみるか?


 よく遊んでいた幼なじみの子と、その高校生のお兄さんと三人で駅前を歩いていたら、兄の悠太さんがそう持ちかけてきた。二人のやりとりを聞いているうちに、これから新しい世界へ入ってゆくような予感がした。


 え~。ゲーセンって暗いし、なんか怖くない?

 じゃあ……ヨーカドーならいいだろ。

 えっ。あの、階段のとちゅうに置いてあるやつ?

 ちがうちがう、屋上。


 エレベーターに乗っていると、目当ての乗りものを目がけて駆け出していったときの感覚が甦ってきた――あそこって、ゲームセンターでもあったのか。

 最上階に到着し、エレベーターから降りた。

 出入口の自動ドアが開いて、屋外へと出た。

 ひとびとの歓声や陽気なBGM、さまざまなゲーム機の発する音などが混じりあっている独特の喧騒が聞こえてきた。

 まだ一日一日がとても長いころの、数年間の空白。

 ものすごく久しぶりな気がした。

 そして、小さいころとはちがう場所のような気もした。

 夕方の屋上は、秋の風がすこし肌寒い。右側を占めているちびっこエリアは、だいぶ狭くみえた。左側の、屋根におおわれたエリアへと歩いてゆく。エアホッケーやモグラ叩きなどとともに、アーケードゲームの筐体がずらりと並んでいる。まっくろな四角いテーブルのような硝子ばりの画面には、それぞれユニークなデモ映像が映し出されている。

 気がつかなかったな……ヨーカドーの屋上が、こうなってただなんて。

 世界をみる目線が低かったころには、文字どおり、目に入らなかったのかもしれない。

 悠太さんがゲームを物色している。やっぱりストIIは空いてねえか、といいながら筐体のひとつを選んでイスに腰かけると、50円玉を投入して、プレイを開始した。二人で挟むようにして見物する。


 それは『ファイナルファイト』という、横スクロール式のアクションゲームだった。

 舞台はアメリカ西海岸の架空の都市で、悪辣きわまる犯罪集団にかどわかされた市長の娘を救出するため、プレイヤーは元プロレスラーの市長本人をふくむ三人のキャラクターのうちの一人になって、敵の本拠地をめざす。街をうろついている連中はほぼ百パーセント無法者なので、片っぱしからぶちのめしてゆく。歩いているだけでは殴られたり刺されたりしてしまうので、そうせざるを得ないのだ。この上なく強引な世直し。見ているだけでも、背徳的な爽快感があった。

 うずうずしながら見ていたたかちゃんが、やらせろよ、とむりやり交代した。悠太さんは操作方法をざっと説明すると、一緒にやってみな、とわたしに50円玉を何枚かくれた。このゲーム、二人で協力してプレイできるからさ。

 1990年代初頭のアーケードゲームは、スーパーファミコンが登場したばかりのテレビゲームと比べて違いがはっきりとわかるほどグラフィックが精緻で、サウンドにも迫力があった。両手の親指と人さし指しかつかわない家庭用ゲーム機のコントローラーとはちがって、ドラえもんのしっぽみたいなレバーを逆手で握りこんでガチャガチャやったり、大きなボタンを連打したりしていると、えもいわれぬ開放感があった。

 しばらく二人で夢中になっていると、別のゲームをやっていた悠太さんが戻ってきた。


 孝子、先に帰るからな。

 あいよ。

 父さんいるんだし、晩飯には遅れんなよ。

 わかってるって、いま忙しいんだよ。


 彼は苦笑いして、わたしにじゃあね、と告げると、出入口へと歩いていった。

 年上のひとたちが大勢いる空間で大音量の音楽を聴きながら、右手と左手を思いきり使って画面のなかの人物と一体化する。テレビゲームとはちがう強烈な体験に、気づけばすっかりのめりこんでいた。そしてこの日を境に、一人でもよくミニ遊園地を訪れるようになった。

 ――現実の世界でも、“夢の世界”でも。


 奈美さんと初めて会ったのは、夢の世界のほうでだった。

 自動ドアが開く。

 高揚感とともに、夕暮れどきの喧騒のなかへと入ってゆく。

 『ストリートファイターII』には、今日も人だかりができている。おとなしく、いつも空いている『ファイナルファイト』の筐体へと向かう。

 わたしのお気に入りのキャラクターは、忍者のガイだった。裏拳から入り、中段突きからひじ打ちへとつなげて回し蹴りでしめる、という連続技が、ボタンを連打するだけでくりだせる。囲まれても一発で蹴散らせる旋風脚や、ときどき落ちている日本刀なども、有効な攻撃方法だ。

 生命力をあらわす黄色いゲージが減りきってまっ赤になると、無法者はさけび声をあげてふっ飛び、地面の上で点滅しながら消えてゆく。どんなやつも、死にざまは同じだった。

 調子よく進んでゆき、三人目のボスが登場。出会いがしらに警棒で殴りつけてくる悪徳警察官だ。ごついくせにかなり素早くて、容赦なく距離をつめてくる。しかも雑魚のとり巻きまでいるので、二人では倒せたことがあるのだけれども、一人ではかなりきつい。

 わりとあっさりと殺られてしまった。

 投入口のそばに四枚重ねてある50円玉を一枚投入し、けろりと復活する。

 三枚に減った硬貨にまた目をやると、手品のように四枚に戻っている。

 簡単なことだ。

 積まれているのは四枚なのだと、念じるだけでいい。

 後ろのほうから、かたい靴音が近づいてきて、背後で立ち止まった。

 甘い香りがする。

 わたしのプレイを覗いているらしい。

 うまいね、と少しかすれた声でいってきた。これ面白いよね、わたしも好き。視界のはしに細い指と、長い髪がみえる。生きるか死ぬかの瀬戸ぎわなので、黙ってプレイを続ける。雑魚たちをなんとか片づけて、警察官との一対一にまでもちこんだ。

 男の子ってさ、やっぱり銃とかナイフとか好きなの?

 女です。


 筐体のまえへと回り、しゃがみこんで見てきた。夜のひと、という印象。ほんとだ、とつぶやいてから、隣に足を組んで腰かけた。ごめんね、まちがえちゃって。画面を見ながら、たまにわたしにも視線を向けてくる。

 ようやく追いつめたかと思いきや、距離をとり、拳銃を抜いて発砲してきた。奮闘もむなしく、ふたたび死亡。でかい図体してるくせに、武器なんかにたよりやがって――ああもう、むしゃくしゃする。コンテニューするかを問うカウントダウンの数字を、ボタン連打でゼロにしてしまう。

 GAME OVER。

 ため息をついて立ち上がり、席をはずす。

 どうぞ。

 (手をかるく振りながら)あ、いいのいいの、やったことないから。……このゲームにハマってた人がいてさ。わたしへたくそだから、見てるほうが面白いんだよね。


 かるく会釈して、出入口へと歩いてゆく。

 後ろからついてくる気配がする。

 そのまま自動ドアを通り、踊り場まで来てから、振り向いた。

 大人っぽい黒い服を着て、赤いハンドバッグを持っている。目が合うと、微笑んだ。身近なところでも見憶えのある、じょうずに作ったような微笑み。

 君さ、もしかして、記憶師のルミちゃんじゃない?(答えずに黙っていると)山崎あずさって子、知ってるでしょ。(うなずくのを受けて)友達なんだよね――目の青い子だって、聞いてたからさ。

 記憶師といっても、まだ見習いなんです。

 見習いって、じゃあ、先生がいるの?

 師匠がいます。

 だったら、お願いだけでも聞いてもらえないかな。

 ……わかりました。

 わたしの記憶を、とり戻してほしいんだ。なんでかっていうと――。

 あ、ご説明いただくより早いので、少しだけ心を拝見してもよろしいでしょうか。

 ……めちゃくちゃ、礼儀正しいんだね。

 きちんとしないと、師匠にぶっ飛ばされるんです。

 彼女は笑うと、どうぞご遠慮なく、といって両手をかるく広げた。

 気を鎮め、相手の目をみて集中する。

 このまえは怒りにおぼれて“あいつ”に借りを作ってしまったから、慎重に。

 ほんの少し、自力で視える範囲だけでいいのだ――夢の世界では肉体がないぶん、力をのびのびと発揮できるから。

 脳裏でテレビがついたように、イメージの断片たちが浮かんでくる。

 高い塀に囲まれた、立派な日本家屋。

 もうピンときた。

 “わたし”は小さなへやで、イスに腰かけた女性と話をしている。

 おなじへやで今度は、ベッドの上に横になっている。

 おなじ女性がそばにいる――目を閉じて、リラックスしてくださいね。追いだしたい記憶を、できるかぎり鮮明に思い浮かべてください。

 ひろい中庭をめぐる板張りの廊下を歩いている。

 向こうから背の高い男がやってくる。

 かるく会釈をしあってすれ違う。

 ……澤田聡史。

 《忘夢苑》に行かれたんですね。

 やっぱり、知ってるんだ。

 それなら、自分から望んで、記憶をなくしたはずですが。

 そうなんだけど――どうしても、取り戻したくなったの。大ざっぱにしか思い出せないのが、逆に辛くなっちゃって。勢いでやったこと、後悔してるんだ。

 高野奈美さんですね。(少し驚いた表情でうなずく)ご事情はわかりました。これから、行ってみます。

 えっ、君ひとりで? まあ、ついていってあげたくても、わたしはもう二度と行けないんだけど……。

 オーナーと顔見知りではあるので、とにかく話をしてみます。

 ありがとう。ごめんね、いきなりこんなお願いしちゃって。

 いいえ。これも何かの、ご縁でしょうから。

 (あらためて感心したように)なんていうか……達観してるよねえ。

 ただの、師匠のうけうりです。

 本当はひとまず現実に戻って、いきさつを報告するべきだったのだけれども。卑怯な警察官にやられたいらだちが続いていたのだ。奈美さんと別れて、そのまま駅のほうへと向かった。

 もうだいぶ暗くなってきている。南口のロータリーからはじまる商店街を歩いてゆき、途中で折れて、住宅街に入る。このあたりは曲がりくねった小川のような小道や、すぐに行きどまる路地があちこちにあって、うっかりすると大人でも迷う。そのときどきの必要に応じて造られてきた、戦前からある道路たち。

 澤田のとりしきっている《忘夢苑》は、夢の世界にしか存在しない。

 現実では、寺院と植木屋が並んでいる一画。そのあいだをぐいんと引っ張って土地を創りだし、割り込んだかのように収まっている。門の脇には筆書きの看板がかけられていて、瓦屋根には松の枝が斜めにさしのべられている。

 ジーンズとジャージのままでは気がとがめるので、このまえの法事での喪服すがたになった。着ているところを、イメージするだけでいい。

 インターホンを押す。少しして、低い男の声が応えた。

 はい。

 浅川と申します。澤田さんにお会いしたいんですが。

 とりついでいるらしい間をおいてから、どうぞ、と返事があり、門がひとりでに内側へと開いた。玄関の引き戸を開けて迎えいれた男の後ろについて、板張りの廊下を歩いてゆく。男は襖のまえまで来ると、失礼します、といいながら、開いた。

 広いへやの中央に長テーブルがあり、背もたれつきの黒いソファに座った男たちが、一斉にこちらへ顔を向けた――背を向けたまま奥に立っている、一人をのぞいて。

 澤田聡史は、スーツのポケットに手を入れたまま、ゆっくりと振り向いた。

 静かな目なのに、この距離からでも押されそうになる。

 あごをしゃくって、目のまえの椅子に座るようにうながされた。

 応じずにいると、ふと表情を崩して、こういってきた。

 お急ぎですか。

 長居は、したくありませんので。

 そう仰らずに、おくつろぎになってくださいよ、記憶師の卵さん。いや、卵は悪かったか。返りたてのヒヨコさん、今日は一人でなんのお使いですか――鶏のもも肉、500グラムか?

 男たちが笑った。一気に熱くなるのが自分でもわかった。

 単刀直入にいいます。高野奈美という人の“記憶の石”を、返してください。

 まあそう、焦るなよ。(硝子戸のほうへゆっくりと歩いてゆく。暗い中庭を見ながら)やっぱり返してください、にいちいち応じていたら、他の顧客に示しがつかないだろう? おまえさんにはまだ、実感が湧かないだろうが。

 だめなんですか。

 そうはいってない。桐原のばあさんには借りもあるしな、返してやらないこともない。だがロハ、というわけにはいかないな。

 ロハ?

 今のこどもは知らないのか。タダ、って漢字を二つに分けるとロハ、になるんだよ。ひとつ賢くなっただろう。

 じゃあ、どうすれば。

 そうだな――ちょうど会合が長引いて、うんざりしてたところだ。

 澤田はポケットから右手を出すと、指をパチン、と鳴らした。

 彼とわたしをのぞいて、あたりの景色が一変した。

 ……だだっぴろい河原だ。

 あたりには霧が立ちこめていて、彼方を見通すことはできない。

 左のほうから奥のほうへと大きく弧を描いて河が流れている。

 地面をおおっている小石たちのなかには、目を惹かれるほど鮮やかな模様のものが少なからず混じっている。

 高野奈美の記憶を凝縮した石は、このうちのひとつだ。探してみな。

 正直、圧倒されてしまった。

 少し話している間に、こんな場所を準備できるなんて。

 ひとつひとつ手にとって確かめれば、持ち主はわかる。でも時間がかかりすぎるし、思念エネルギーもすぐに底をつき、目が覚めてしまうだろう。つまり夢の世界から、離脱してしまう。考えろ。どんな石で、どこにあるのかさえ判ればいいのだ。だったら――

 澤田さん。あなたの記憶を直接、探るしかない。

 なるほど。だが、うわっつらを視たところで無駄だぞ。重要な記憶は、厳重に鍵をかけた蔵のなかにあるからな。

 それを、覗かせてもらいます。

 そうくるんだろうが、無鉄砲すぎるな。……まあいい、受けて立とう。やれるもんならやってみな。

 相手の両目を、まっすぐに見つめる――瞳の奥にある深淵へと、向かってゆくような吸い込まれてゆくような感覚があって、気づけばまた別の景色のなかに立っていた。

 静かな雑木林だ。
 すぐそこに、旧家にあるような蔵が建っている。
 かんぬきがかかり錠前の付いている扉のまえには、“思念獣”がいる——夢の世界において、特定の目的のためにのみ使役することが許可されている、あるじの意のままに従うけもの。

 澤田の思念獣は、巨大な虎を思わせる。にぶく光る山吹色のからだに、黒い縞もようが、頭から尻尾へと、なめらかな波紋が広がるように流れつづけている。名前は流曹だ、と蔵から少し離れたところに立っている澤田がいった。

 小細工は通用しないぞ。蔵の鍵が欲しければ、そいつを倒すことだ。

 こうなったら、全力でぶつかるしかない。意識を集中して、わたしの思念獣を呼びだす――まっしろな毛なみの、狼だ。からだから青い燐光を発していて、足の先や尻尾の先からも、つけ根へと向かってかけのぼるように青が滲んでいる。

 顔を正面からみて、撫でてやる。藍色の二つの目が、戦意を帯びた。

 この子はロンです、と名乗りをあげてから、遠隔操作をするようなつもりで思念を送る。

 ロンはいっさんに駆けてゆき、流曹に飛びかかった――かるく突き飛ばされた。めげずになんべんも飛びかかり、噛みつこうとしても、ことごとくいなされる。エネルギーを凝らして、青い炎を浴びせかける。まともにくらっているのに、涼風のごとしといった様子。……だめだ、次元がちがう。ふたたび飛びついたのをかわされざま、首根っこに噛みつかれる。くわえこんだまま、前足で地面に押さえつけられる。エネルギーを吸いとられてゆく。ロンのすがたはしだいに薄くなり、消滅してしまった。

 流曹はわたしを見ると、一直線に駆けてきた――気圧されて、動けない。二の腕に噛みつかれ、地面に転がった。振りほどこうとがむしゃらに暴れても、びくともしない。生気を吸われてゆく――わたしのからだが薄くなってゆく――意識も薄れて、あたりが暗い。澤田の声が聞こえてきた。

 さて、そろそろお目覚めの時間だ。歯医者さんに一人でくるのが怖けりゃ、次はおばあちゃんに付き添ってもらうんだな。

 男たちの笑い声が降ってきた。

 ……目が覚めた。

 わたしの家の、わたしの部屋の、わたしのベッドの上だ。

 枕元の目覚まし時計が、チクタクいっている。

 カーテンの隙間から、朝の光が差しこんでいる。

 かけ布団を振りはらい、起きあがる。

 寝汗をびっしょりとかいている。

 パジャマをまくって二の腕を見てみると、うっすら赤い歯形がついている。

 初めから終わりまで、むこうはあくまでも冷静だった。

 遊ばれていた。手加減されていた。

 枕をなんべんも殴りつけていたら、目のまえがぼんやりと滲んできた。