下町びとの少し昔話
第4回 一番深い場所からのご馳走《店屋物の出前》
まえがき 事実/小説、いずれも奇なり
この連載では、前の週の『平成おとぎ草子』に登場した下町のスポットなどについて、記憶を辿りなおしながら改めてご紹介してゆきます。こちらをお読みになってから小説世界に戻っていただくと、異なった風景が脳裏に浮かんでくるかもしれません。
ドラマ『孤独のグルメ』の最後には、その回に登場したお店を原作者の久住昌之氏が実際に訪問する『ふらっとQUSUMI』というコーナーがありますが、このエッセイも、小説に伴走して励ますような存在になってほしいと思っています。
一番深い場所からのご馳走
『ものぐさ亮二、いろいろ食べなさい』では、イタリアンレストランが舞台になっているのにも関わらず、主人公の語りにはしばしば蕎麦ネタが登場します。レストランのある場所にかつて暖簾を掲げていた、だし巻き卵が人気な蕎麦屋を思い出したり、相手の食べているスパゲッティを、せいろに盛られた蕎麦に見立てたり――書いているうちに記憶の引き出しのある箇所が、ここを使いなよ、とひとりでに開いたような感覚でした。
小さいころ、もっとも身近なご馳走は、外食ではなく、近所からとる店屋物でした。家の黒電話のかたわらには、あいうえお順の電話帳やタウンページとともに、いつも頼む店の出前用メニューが立てかけてあった。
うちは、蕎麦屋か中華屋かの二択。どちらかといえば、蕎麦屋の番号のダイヤルを回すことの方が多かった。まだ宅配ピザが流行りだす前のころです。
腹を空かせてそわそわしていると、路地へと曲がってきたスーパーカブの走行音が聞こえてくる――どんどん音が大きくなってくる。こんばんは、出前でぇす、まで待てずに(当時の実家にはインターホンがなかった)、そそくさと部屋を出て、階段を降りてゆく。
玄関先にカブが停まり、エンジンが停止する。
夜気にふうわりと漂っている、蕎麦つゆや天丼のたれの匂い。
白い割烹着を着たいつものお兄さんが、熱いから気をつけてね、といいながら、銀色の岡持ちからラップのかかった温かい蕎麦や蓋の閉じられた天丼の器、きゅうりのお新香や薬味の葱の小皿をとり出しては、次から次へと置いてくれる。
親に託されたお札を手渡すと、黒革の小銭入れをじゃらじゃらと探り、硬貨でぴったりお釣りをもらう。
働く大人が、格好よく思えるひとときでした。
その蕎麦屋の実店舗がどこに在るのか、そのころは知りませんでした。お兄さんはいつもどこからともなく、カブを駆りながらやってくる。玄関先に置いておいた空っぽの器も、翌日、気がついたら消えている。
大人になって、地元をぶらぶら散歩している時にふと、憶えのある店名の看板が目に留まり、この店だったのか、と初めて知ったような次第。
今や百花繚乱な、フードデリバリーサービス。作り手の顔を見ずにプロの料理を食べる機会は、これからますます増えてゆくのでしょうか。
《下町びとの少し昔話 第4回 一番深い場所からのご馳走 了》