平成おとぎ草子
第1話 下町の龍宮
まえがき 童心に、なってみませんか。
『平成おとぎ草子』は、1990年代の東京の下町を舞台に、「浦島太郎」「桃太郎」「舌切り雀」などのおなじみのおとぎ話からテーマをとりつつ、おなじ主人公・世界観をベースに自由な解釈でリメイクしてゆく連作シリーズです。こども時代という人生の物語の原点と、日本の物語の原点をかけ合わせてみよう、という試みです。
執筆していてあらためて感じたのですが、平成になって間もないころには、まだまだ昭和の名残りが濃厚でした。
黒電話やブラウン管テレビ、木目がひとの顔に見える天井。
そんな昭和の夕焼けのような世界に、確実に令和の現代へとつながる要素が出現してくる。90年代とは、そういう時代だったのでしょう。
むかしの日本といまの日本の、橋渡し役をになっていた時代。
世知がらい現在ただいまから少しむかしへとこころを遊ばせてみて、ゆっくりと作品世界に浸っていただけたらうれしく思います。
おとぎ話の語り直しは、これまでにも多くの作家が試みてきました。 浦島太郎ひとつをとっても、江戸時代から近・現代にかけて、近松門左衛門、森鷗外、島崎藤村、太宰治らが、それぞれの解釈による表現をおこなっている。
そういった歴史もふまえつつ、令和の時代にひっそりと生きるいち物書きが新たな作例をつけ加えてみるのも、なかなか愉快なことではないか。そう思いつつ書き進めています。
参考文献
河合隼雄『昔話と日本人の心』岩波現代文庫、二〇〇二年。
*この物語はフィクションです。登場人物は主人公もふくめて、すべて架空の存在です。
*どの回も一話完結式ですが、第1話から順にお読みいただくとすべての繋がりがわかって、より一層お楽しみいただけます。
下町の龍宮
おなじ太さの二本の白線がおなじ幅で楕円形に引かれている、おなじ競技場のおなじトラックを、毎日毎日、ぐるぐる走りつづけているような身の回りの世界は、その気になればそこから飛び出して、外へ外へと広げてゆけるのだ。
そう信じてみたくなったときには、いつも六年生の春を思いだす。
新しい自転車に乗りはじめたころのことを。
先代のと比較して、デザインがこどもっぽくなくなったのがうれしかった。サドルが高くなり、ペダルの抵抗も強くなったのでふらついたけれども、漕げば漕いだだけのエネルギーが車輪へと伝わり、見慣れた風景を置き去りにするスピードへと変わる。そのまま勢いに任せて、先へ先へと進んでみたくなる。
河川敷って、意外と近いんだな。
橋を渡って隣の駅までは、やっぱりけっこうきっついな。
そのうち折り畳み式の地図を買ってもらうと、家にいたくない日曜日にはしばしば遠出をするようになった。気軽にひとり旅へ出られるすべを発見して、夢中になっていたのだと思う。
自宅から地続きに、未知なる世界は広がっていた。
数ヶ月がたち、小学校最後の夏休みに入るころには、自分のからだの延長のようになってきていた。
八月のはじめの、ある水曜日の午後のこと。
その日はひとりではなく、幼なじみの子と遠乗りをすることになっていた。
昼食をすませ、リュウキンにも餌をやり、荷物を整えて、さあ迎えに行こうというときに、一階の廊下にある黒電話が、ジリリリリリリリリィンと鳴った。
あ、だめなんだ。
なんとなく、そう直感した。
足元の滑りがちな木の階段を駆けおりて、三度目のジリリリリリリリリィンの終わりごろ、受話器をとりあげる。
もしもし。
(いつものほがらかな調子で)あ、ルミちゃん? 村治ですけど。
こんにちは。
こんにちは。わるいんだけどさ、孝子、今朝から急に熱が出ちゃったのよ。
あ、そうなんですか。
自分で電話させようかとも思ったんだけど、喉、ガラッガラなもんだから。せっかくなのに、ごめんなさいね。
わかりました。お大事にって、伝えてください。
どうもありがとう。また遊びにきてね。
受話器をゆっくり、チン、と下ろす。
じゃあま、ひとりで行きますか。二階からリュックをとってきて、テーブルの上に視覚情報のぎっしりとつまった地図を広げる。江戸川区の南はこのあいだ攻めたから、きょうは葛飾区の北の方にしようかな。金町駅から先へは、まだ行ったことないし。
ひとさし指で見えない線をいくつも引きながら、家からの道筋を探ってゆく。決まったら、目を閉じたまま再生できるまで、目印とともに記憶に焼きつける。なにしろ平成の初めのころで、モバイルデバイスはまだなかったし、いちいち地図をとり出すのもおっくうなので。
サイクリングに行ってきます。夜になるまでには帰ります。
冷蔵庫の脇にとめてある使い回しのメモの一枚を、テーブルに置く。いつもの軽めのスニーカーを履き、玄関のドアを開ける。きちんと鍵をかける。愛車を道路に出してから、鉄柵を閉め、隙間から手を入れてフックをかける。
真夏の日をあびたアスファルトが熱い。
ご近所さんはだれも外にいない。
ミンミンゼミが電柱で鳴いている。
リュックを前カゴに入れ、スタンドを倒す。
まずは最寄りの街道をめざして、立ったままでペダルを漕ぎだした。
わたしが生まれ育ったのは、東東京の下町の、ずっと東のすみっこのほうだ。千葉県との境をなす江戸川まで、大人の足ならぶらぶらと散歩がてらにゆける。
新潟と群馬の県境にそびえる山を水源地として南東へ流れている利根川は、茨城と千葉の境界あたりで二股に分かれ、左の流れは江戸川となって南西へと向かい、行徳あたりで本流と旧流にさらに分かれ、境の役目をつづける旧流は、派手にのたくって景気をつけてから、東京湾へと注いでいる。
それにしても下町のほうって、川が多いですねえ。いったい橋をいくつ渡るのかと思いましたよ。西方の高台にあるトレンディシティから電車ではるばるやって来たひとに、そう言われたことがある。まあ、それはそうでしょうね。ざっと四千年もさかのぼれば、あたりいちめん海の底ですから。
そんな気でいると、あちこちの道が流れに見えてくる。
地元の古い区画に足を踏み入れると、細い路地が二股三股に枝分かれしつつそれぞれ気ままに蛇行しているし、かつては用水路だった駅のそばの車道も、ゆったりとS字を描いているので、見通しがききづらかったりする。
ここいらを走る車や自転車は、水の記憶の底を泳いでいる鉄の魚だ。
むわっとする追い風に押されながら夏まっ盛りの柴又街道を飛ばしてゆく。
街道は、柴又帝釈天の参道の横腹を突っきるようにして伸びている。
浄水場の脇を走りながら、平行して走る京成線の電車に追い抜かれる。
国道六号、水戸街道をゆきかう車の流れが近づいてくる。
渡ればほどなくして、金町駅まえのロータリーだ。
自転車をおりて、連絡通路から北口へ抜ける。そのままなんとなく商店街を歩いてゆき、途切れたあたりで路地のほうへ折れ、ひと休みしたいなあと思いながらなおも進んでいると、古刹の門前に公園を見つけた。
青いペンキの剥げた木のベンチが、うまいこと銀杏の樹の葉陰に入っている。
自転車を停め、リュックを脇に置いて腰をかけると、背中がなまぬるい。
タオルを出して汗をぬぐい、ゆっくりと呼吸を整えながら、まぶたを閉じる。
蒸れた雑草のにおいが風に運ばれてくる。
樹上から蝉の声が降ってくる。
水筒を出して、麦茶をそそぐ。氷のかけらが残っているから、まだけっこう冷たい。スーパーのよりも濃密な、駄菓子屋のふ菓子で糖分補給。
下敷きで扇ぎながらしばらくぼんやりしていたら、だいぶ落ち着いてきた。地図を出して、現在地を見てみる——あった、ここだ。ここまで来ちゃえば、水元公園も遠くないな。せっかくだから、行ってみますか。
ついつい回り道をしたくなる癖は、このころから変わらない。無難なルートの大通りから脇道へそれて、見当をつけながら住宅地のなかを進んでゆく。
このへん、わりとアパートが多いな。メゾンとか、ハイムとか、荘とか。
どれも二階建てで、正面か脇にカンカン鳴りそうな鉄の階段がついており、留守中みたいにしんとしている。道にも、人影はほとんどない。たまに芝犬を連れたおばさんや、スーパーカブを駆るそば屋のお兄さんとすれ違う。
すこし先、灰色の板チョコめいた民家のブロック塀の途切れているあたりに、砂利の敷かれた駐車場がある。
見えていないその奥のほうに、ふと、不穏な気配が感じられた。
自転車をおりて、歩きながら近づいてゆく。
ブロック塀にからだを寄せ、そうっと中をうかがってみる。
わたしと同い年ぐらいの子たちが四人、固まってなにやらしゃべっている。
力関係はすぐに判った。塀を背にした小柄な子がとり囲まれて、ちょっかいを出されているのだ。あとの三人の様子からして、赤いポロシャツの背の高いやつが、頭目格。目つきの冷たいやつと、卑屈そうなやつは子分らしい。
小柄な子のかけている眼鏡に注意が向いた、その瞬間だった。
脳裏にあるテレビが勝手についたみたいに、映像が浮かんできた。
赤いポロシャツが眼鏡をとろうとして、はねのけられる。また手をのばし、拒絶される。それから子分らも加勢して、三対一のもみ合いになったところへ出て行ったわたしが、ねえ、ちょっと、と声をかける——もう少したったら。
一連の光景が、予告編のようにはっきりと視えたのだ。
……はいはい、わかりました。
こういう現象は、すでに何度か体験していた。
見なかったふりは、不可能だった。どうしても、そうなってしまうらしい。ことの成りゆき上。世界の、前後の脈絡からして。他に説明のしようがない。
大きく深呼吸。もういっぺん。手のひらの汗をぬぐう。自転車のグリップを握りなおして、駐車場の中へと入ってゆく。手ぶらで出ていくのは、怖かった。
動悸とはうらはらに、車輪がチキチキと、かろやかに鳴る。
スニーカーが砂利を踏みしめる音が、いやに耳につく。
眼鏡をかけた小柄な子が、こちらに気がついた。
他の三人も気がついた。
赤いポロシャツがまっ先に、なにも見なかったように顔をそむけた。
来るんじゃねえよ、さっさと消えろよ。
態度がそう言っている。そのわりにはこっちを意識してか、口調やしぐさが大袈裟になった。
赤いポロシャツが眼鏡をとりあげようとして、はねのけられた。なんだよ。ちょっと、見せてみろよ。いじくって壊すんだろ。んなわけねえだろ、かけてみたいだけだって。やだよ。いいから貸せ。つかみかかり、子分らが加勢して、もみ合いになった——
ねえ、ちょっと。
カット、と映画監督が声をかけたみたいに、アクションが止んだ。
四人が見てきた。
全員で、しばらく固まった。
ワイルドぶってボタンをぜんぶ外している赤いポロシャツが、どうして声をかけられたのかさっぱり判らない、といった表情で、口を開いた。
え、なに?
やめなよ、そういうこと。
そういうことって?
その子のメガネ、とろうとしてたじゃん。
ちげえよ、貸してもらおうとしてたんだよ。
いやがってるけど。
どこが。みんなで楽しく遊んでただけだって。なあ?
子分らが、にやにやしながら同意した。眼鏡の子はだまって下を向いている。そうでしたか、それはどうも失礼いたしました、と素直に引き下がるわけにはいかない。自転車を停め、あらためて向かい合う。
遊んでるわりにはその子だけ、楽しそうじゃないけど。
(舌打ちをして)だからぁ、なんでわかるんだよ。
見ればわかるでしょ。
なにが?
あんたたちが……いじめてる、ってことが。
(間髪をいれずに)こいつが弱っちいから、いざという時のために特訓してやってるんだけど。
そんな、だって——
(一言一言、ねっとりと)通りかかっただけのくせに言いがかりつけんじゃねえよ、ばぁか。(痛いくらい声を張り上げて)あ〜あ、せっかく面白いところだったのに、激しく盛り下がっちゃったなあ。どうしてくれるんだよ。なあ。おい。ひとさまの大事な夏休みのひとときを台なしにしやがって、てめえ責任とれんのかよ? ごめんですんだら警察いらねえんだぞ。
脳内が煮えたぎってゆく。鳥肌が全身をかけめぐり、肉体感覚が希薄になり、ものすごく冴えてくる。眉間のあたりが、しんしんとうずく。真昼の駐車場が、いっそうあかるく感じられる。
ごちゃごちゃ屁理屈ぬかしやがって。いろいろ視えてんだぞ、さっきから。荒ぶるこころに同調してきたかのように、すぐそばに、あいつの気配を感じた。
寄ってくるなよ。
おまえが呼んだんだろ?
からかうように、さも愉快げにそそのかしてくる——思い知らせてやれよ。でも、やばいかも。平気だって、ここならおまえはエイリアンだよ、地元じゃねえんだから。そうかな。そうさ、やれよ。やるか。やれっ、やっちまえ!
極度の興奮で息がつまる。握りしめたこぶしが震えている。このままこらえていたら、胸が破裂しそうだ。さらに突き上げるような扇動がきた。
おらおらおらおら、さっさとぶちまけちまえって!
限界だ。
強引にため息をつきながら、口火を切った。
それでも、なんとか抑えようとはしてみる。
……きのうも兄貴にいじめられたから、ストレス発散か。君も大変だね。
はぁ? なに言ってんの。
決まってんだろうが、シゲ兄ぃのきまぐれプロレスのことだよ。
無理にせきとめて、反応をみる。
状況を認識できないのか、あっけにとられたような表情。
なんだよ、そのまぬけづらは。さっきの威勢はどこへいった。
あふれんばかりに啖呵がこみ上げてくる——もちこたえていた堰が、切れた。
毎晩のようにお布団マットに引きずりこまれて練習台じゃあ、そりゃつれえわな。投げっぱなしジャーマンやらチョークスリーパーやら、ジャイアントスイングやら腕ひしぎ逆十字やら。地獄の日替りメニューってやつだ。でもひとさまにあたり散らすぐれえなら、バッティングセンターでボールにあたれよ。……あぁ、小遣い少ねえのか、わりいわりい。だったら、河川敷でシャウトがおすすめだ。タダだし、肺活量も増えるしな。
知らないはずのプロレスの技名が流れるように出てくる。口調そのものも(もちろん)、普段のわたしとは別人のようだ。そんな自分の隅から隅までを、冷ややかに観察する自分もいる。
全員で、ふたたび固まった。
からだが反応したがっているのか、えせワイルド赤ポロシャツは口ばかりをぱくぱく動かしているけれど、何も出てこない。
結局は、目のあたりにした不都合な現象をバッサリと斬り捨てることにしたらしい、無理もないけれども。やがて両目に光がもどると、後ろを振り返り、子分たちに救いの手を求めた。
(あきれたように)こいつ——頭おかしいんじゃねえの。
(目つきの冷たい子分A)絶対、やばい。男か女かもよくわかんねえし。
(卑屈そうな子分B)だよねだよね、目の色もなんか変だし、きもちわる。
(首筋をかきながら)あ〜あ、あっちいなあ。行こうぜもう、めんどくせえ。
すれ違いざま、わたしにだけ見えるように一瞬、鋭くにらんできた。すこし言い過ぎたかな。子分らも後からついてゆく。憶えてやがれ、と捨てぜりふを吐かれたら、やなこった、こっちはそんなに暇じゃねえんだよ、と返すところだけれど。現実は、時代劇とは違うらしい。
悪党どもは去った。しずかな真昼の駐車場になった。
眼鏡の子と目が合った。
ほっとしたというより、狐につままれたような表情。まつ毛、長いなあ。
ええっと、こっちからなにか言わなきゃ——このたびは自然に、思うところが口から出てきた。
余計なおせっかい、だったかな。
なんで?
だって……どうせ、学校でまた会うんでしょ。
視線を外して、考えはじめた。真剣に受け取ってくれたみたいだ。それからうち解けたように微笑んで、こう返してきた。
まあね。でも、助かったよ。うちの学校のひとじゃないよね?
ちがうよ。はるばる江戸川区からやってきました。
六年?
六年。
(やっぱりね、という風にうなずいて)まあ、いまはもう夏休みだし、今日からまれたのも、たまたまだし。べつに関係ないっしょ。
なら、いいんだけどさ。
目的地を告げたら、すぐそこだよ、と案内してくれることになった。
自転車を押しながら、歩き慣れたようすの地元っ子と並んで歩いてゆく。
このころにはまだ、わたしのほうが少し背が高かった。
初対面なのに、旧友みたいに気兼ねのいらない心境だったのを憶えている。
ねえ、さっきの、何だったの。
うん?
あいつんちのこと、知ってるみたいにさ。
(言葉を選びながら)……かあっとなったりすると、相手の記憶が、まるで自分のみたいに浮かんでくることがあるんだよね。いつもなら絶対に、口には出さないんだけど。
(内容を噛みしめているように)……そんなひと、本当にいるんだ。
どうやら、そうらしいですよ。
(ほがらかに笑い合う)
あいつのお兄ちゃんってさ、かなり年上じゃない? たぶん、高校生。
さあ——仲良くないから、わかんない。
そっか。
道の両側には、門がまえの立派な旧家や、ビニルハウスを備えた畑がある。
十字路を右へ折れ、野菜の直売所を通りすぎる。
道の先には、自転車で一気に登りきるのはしんどそうな、短い急坂が見える。
あそこを登れば、水元公園だよ。
うん、わかった。
突然、名残惜しさに襲われた。まだ話したいことが沢山あるような気がする。むこうも同じなような気がする。
あのさ、と、彼が立ち止まった。
わたしも立ち止まる。
青空のもと、蝉たちが元気よく鳴いている。
こめかみを汗がつたわってゆく。
水族館とか、行ったりする?
えっ。
水族館。
……行く行く、よく行く。魚類図鑑だって持ってるし。
うちの店、すぐそこにあるんだけど。
うん。
来ない?
うん、行く。
もう少し、一緒にいませんか。そうですね。
お互いにぎこちなかったけれども、要するにそういう会話だったのだ。